古代ローマの王政時代(紀元前753年 - 紀元前509年)において、王権の抑制や歯止めとなる仕組みは、共和制ほど明確には確立されていませんでした。ただし、いくつかの制度や慣習が存在しており、王権の濫用をある程度抑える役割を果たしていました。以下がその例です。
ローマの王政時代には、王を助けるための諮問機関として貴族会議(元老院、セナトゥス)が存在していました。この会議には、ローマの有力な貴族たちが参加し、王に助言を行いました。元老院の役割は王に対して強制力を持つものではありませんでしたが、王が重要な決定を行う際には影響を与えることができました。
ローマの伝説によれば、王は世襲ではなく、元老院や市民によって選出される形式を取っていました。この選出プロセスにおいて、王が完全に独裁的な支配者となることを防ぐ一定の歯止めが存在していました。新しい王は、前任の王が死亡したり退位した場合に選ばれ、その選出には貴族階級や市民の支持が必要とされました。
王はローマの宗教的な儀式を司る役割も持っていました。この宗教的な責務は、王が神々の意向に従わなければならないという制約を意味し、ある種の抑制として機能しました。王が宗教儀式や神々の意向に反する行動を取ることは、宗教的および社会的な非難を受ける可能性がありました。
しかし、これらの仕組みは必ずしも強力な王権の抑制にはなりませんでした。特にタルクィニウス・スペルブス(「高慢王」)の時代には、王権の濫用や専制的な行動が顕著になり、これに対する反発が強まりました。タルクィニウス・スペルブスの統治は暴政として記憶されており、彼の排斥が共和制への移行を促すきっかけとなりました。
紀元前509年にタルクィニウス・スペルブスが追放されると、ローマは共和制に移行し、王政は終焉を迎えました。共和制のもとでは、権力の分散が進められ、執政官(コンスル)や元老院などが権力を分担し、王のような強力な権力者の出現を防ぐ仕組みが構築されました。
このように、王政時代にはいくつかの抑制的な要素が存在しましたが、王権の制限は不十分であったからこそ、市民の不満から最終的に王政時代は終焉を迎えることになったのです。
スルピキア
紀元前1世紀に活動した、数少ない古代ローマ女性詩人の一人。恋愛詩が特徴で、愛人に捧げた詩が『ティブルス詩集』に収録されている。当サイトに転生し、古代ローマの文化、歴史、社会に関する様々な疑問に回答してくれる。