古代ローマの政治体制に関するQ&A

「古代ローマ人はなぜ『王』を否定して『皇帝』を受け入れたの?」という疑問にわかりやすく回答。王政の専制的な記憶と、アウグストゥスが共和制の形式を維持しつつ権力を集中させた経緯を理解する助けになれば幸いです。

なぜ古代ローマは王は否定して皇帝は認められたの?

素朴な疑問なんですが、なぜ古代ローマ人は「王」は否定したのに「皇帝」は受け入れることができたのですか?どちらも似た様なものに思えるのですが・・・。

古代ローマにおいて、王(レクス)の概念は否定される一方で、皇帝(インペラトル)の権力が受け入れられた背景には、ローマの歴史的・文化的な要因と政治的な発展が関係しています。

 

王政の終焉と共和制の確立

ローマはもともと王政(紀元前753年 - 紀元前509年)で統治されていましたが、最後の王タルクィニウス・スペルブスの専制と暴政に対する反発から、ローマ人は王を追放し、共和制を樹立しました。共和制のもとでは、二人の執政官(コンスル)が一年ごとに選出され、元老院が政治を主導しました。この体制は、権力の集中を避け、王政のような専制を防ぐことを目的としていました。

 

王という言葉の否定的な意味合い

ローマでは「王」(レクス)という言葉自体が専制的で独裁的な支配者を連想させ、否定的な意味合いを持つようになりました。王政時代の記憶が残っていたため、ローマ人は「王」という称号を嫌い、これに類する政治体制を忌避する傾向がありました。

 

皇帝という新しい地位の形成

一方、ローマ帝国の初代皇帝であるアウグストゥス(オクタウィアヌス)は、共和制の伝統を尊重しつつ、実質的な権力を集中させることに成功しました。彼は公式には「プリンケプス」(第一市民)と称し、王という称号を避けました。また、「インペラトル」(軍の最高指揮官)という称号を用いることで、軍事的勝利と平和の維持を強調し、ローマの伝統や軍事文化に適合するリーダー像を提示しました。

 

アウグストゥスは独裁者のような専制君主としてではなく、共和制の制度を尊重する「第一市民」として振る舞いました。このため、彼の支配体制は広く受け入れられ、彼に続く皇帝たちも同様の形で権力を行使しました。このようにして、皇帝は「王」とは異なる存在として認識され、ローマ社会に受け入れられました。

 

実質的な権力集中と形式的な共和制の維持

ローマ帝国において、皇帝は実質的には全ての権力を掌握していましたが、形式的には共和制の枠組みが維持されていました。元老院は依然として存在し、皇帝は元老院や市民の支持を得ることが重要とされました。この形式的な共和制の維持は、ローマ人の伝統的な価値観を尊重するものであり、王政時代の復活を避けるための重要な要素でした。

 

こうして、古代ローマでは王という概念が拒絶される一方で、皇帝という新たな権力者が受け入れられる体制が構築されたのです。

スルピキア

 

紀元前1世紀に活動した、数少ない古代ローマ女性詩人の一人。恋愛詩が特徴で、愛人に捧げた詩が『ティブルス詩集』に収録されている。当サイトに転生し、古代ローマの文化、歴史、社会に関する様々な疑問に回答してくれる。