ローマ帝国が東西に分裂した理由

ローマ帝国が東西に分裂した理由|テトラルキアとは違う分担統治

ローマ帝国が東西に分裂した理由|テトラルキアとは違う分担統治

地中海全域におよぶ広大なローマ帝国領は4世紀半ばに東西に分裂しました。それまで帝国領を治めていたテオドシウス1世が395年に死に、2人の息子に領土を東西に分担統治させたからです。

 

 

分担統治させた理由とは

紀元375年以降、北方のゲルマン民族が南下を始め、ローマ領に侵入してくるようになりました。テオドシウス1世は自分の没後、後継者争いや内紛で国防が脆弱になり、“蛮族”に国土を荒らされることを懸念し、広大な領土の統治を2人の息子に分担させ、有事に機敏に対処できるよう計らっていのです。

 

テトラルキア(四分統治)との違い

テトラルキア(四分統治)は“分担”とはいっても、最終的な決定権・裁決権は1人の皇帝が独占しており、実質1人で統治されていたことに変わりありませんでした。
しかし395年以降の東西分担統治では、皇帝権が統一される期間がほとんどなく、国家運営の方針がしだいに剥離していき、同じローマの名を冠していても別の国家のようになったのです。

 

西ローマ帝国と東ローマ帝国

ローマ分裂後の西の領域を西ローマ帝国、東の領域を東ローマ帝国(もしくはビザンティン帝国)と呼びます。ただこのように西ローマ帝国と東ローマ帝国を分けて扱うのは後世の考え方です。東西で国家運営の方針が剥離したとはいっても、東西の市民の意識としてはあくまで同じ国家であり、皆自分はローマ人だと考えていたようです。

 

西ローマ帝国は滅亡、東ローマ帝国は存続

帝国領の分裂後、結局西ローマ帝国はゲルマン人の侵入に対処することができず、最終的に滅ぼされました。一方で東ローマ帝国は民族大移動の影響を大して受けずに住み、分裂から1000年以上存続しました。

 

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